1980年代半ばから雨後の筍のように全国で高速バスの開業ラッシュが続いたが、90年代に入るとその動きは一段落する。考えられうるおよそ全ての中小都市まで高速バスの路線網が整ったからだ。
高速バスは、法的には乗り合いバスという扱いであり、乗り合いバスの事業免許は地域単位で1社ずつ独占的に与えられていたから、高速バス分野においても、運輸省(当時)はバス同士の競合を当初は認めていなかった。
私鉄系の共同運行ペアとJR系の共同運行ペアが競願になった場合では、わざわざ調整して4社共同運行に持ち込むよう指導していたのだ。
89年頃からはダブルトラックが認められ、一部で競合も生まれたが、全く同じ日に認可され路線開業し、認可運賃制度のもと、運賃は必ず同額で価格が競争の要素とならないなど、激しい競争というよりは市場を半分ずつ分割する「共存」であった(逆に、既に成功していた路線に後発参入を挑んだ例はほぼ存在しない。運輸省が認可しなかったのかもしれないし、地域ごとに独占免許を得ていた当時の乗り合いバス業界側に、新規路線の「権利取得」競争はあっても、後発で戦いを挑むという発想がなかったのかもしれない)。
だから、明石海峡大橋ルートや東京湾アクアラインなど高速道路のさらなる延伸があった区間を除けば、新規路線はピタッと止まった。
一方、モータリゼーション進展により、本業である地域の路線バス事業は収益性が急速に悪化するとともに、バブル経済崩壊によって都市開発などの付帯事業も厳しくなった。
高速バス事業の黒字で地域の路線バスの赤字を埋めることが常態化し、そのことは、業界全体で「身銭を切って、ローカルな公共交通の維持に注力している」という使命感、あるいはある種のプライドを生んだ。
筆者がアルバイトとして高速バスと出会ったのはこの時期だが、筆者自身、そのような使命感に共感したのは確かだ。ただ、その使命感がむしろバス業界の将来を邪魔しているのではないかという不安もまた、同時に感じていた。
(高速バスマーケティング研究所代表)